百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

忠見のうた

昨日ツイッタに少し忠見のこと書いたので、転記および追記しておきます。

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壬生忠見について、私は憧れをもっていて、イメージとしては美味しいものが好きで朗らかなおっさんです。貴族としては見下されがちだけど、あんまり気にしてないというか、むしろその身分の低さも良い方に捉えてのびのびと仕事して遊んで暮らしてる。そんな印象。
なので、天徳の歌合で負けて悶死したというのは、全くその経歴や歌から受ける印象と真逆なので、まあ話を面白くするためのガセでしょうと思っているのですが、それはそれとしてあの歌は、はっきりいって私はダントツに勝利と思っているので、あれで負けたら憤死してもいい。
みたいなことを卒論に書いたんだけど、いま考えてもこれ卒論にするべき内容じゃないよなあ…学問じゃないわ…。しかしどうにか私は私の好きな忠見をいつかは、まざまざとありありと、眼前にあるようにえがきたい。
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私が歌合で恋すてふを勝利と思う理由。
こひすてふわかなはまたきたちにけりひとしれすこそおもひそめしか
しのふれといろにてにけりわかこひはものやおもふとひとのとふまて
並べると、同じ「忍恋」というお題でもいろんな意味で全く異なる歌なので、この歌合は面白かったろうとは思うけど、「こひすてふ」は下の七七で、うろたえ震える心を瑞々しく描いており、恋心を隠す人の胸を打つ。「しのふれと」も人に問われてはっとするところはいいのだけど、「こひすてふ」に比べると、その心の震えからはいささか遠い。それが技巧であり上品な歌に見せている部分でもあるので、そういう歌が好きな人にはいいのだろうけど、卒論を書いていた頃に恋をしていた当時の私にも、そして恋からも文学からも遠ざかり忍ぶのは仕事の悪態という現在の私にとっても、「ひとしれすこそおもひそめしか」という内心のつぶやきの鮮やかさ切実さは、ほかの表現では替えがたい魅力。
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ここから追記。
私が忠見に対して持つ印象は主に各歌集から来るものなんだけど、父の忠岑のうたと忠見のうたは混在していて切り分けにくいため、いくぶんか忠岑その他のイメージも取り込んでしまっていると思う。
忠見集はそれが顕著で、おそらく家伝書として編まれたものと思われ、家の者が詠んだうたをいくつかここにまとめておくから我が子らはこれを読んで勉強しなさいね。とでも言いたげな家長としての忠見をそこに私は感じる。
この、家の仕事の一環として歌やってます感は、忠見を考えるときどうしても外せない。現在では任官状況が全く分からなくなっている忠岑の代に対し、その子忠見はふたつみっつは任官状況がわかっている。たぶん、父親よりも出世したのだ。おそらくは歌の力も使って。
それでも身分でいうと正六位がわかっている最高位だから、上記「しのふれと」の平兼盛の毛並の良さと比べると、猟官運動とか苦労して少しでも出世したんだろうなーという気もしないでもない。
わかっていることが少ない分、そんなふうに今はもう知る術もないいろいろなことを、断片を手掛かりに好き勝手に空想する余地があって楽しいけど、生没年だけでももう少しはっきりすると空想の手掛かりになるのになあと、そこは残念。
まあ卒論から20年近く経って、その時点から知識としては一歩も進んでいないので、どこかで知識を仕入れ直して、空想を新たにしたいものです。