百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

指揮者とオーケストラ

配偶者から、今年の誕生日(イブ)プレゼントとして、コンサートに招待していただきました。感謝。
東京芸術劇場のマチネーシリーズで、いやお題目はどうでもいい。こんなんです。
指揮:広上淳一
ピアノ:小菅優

http://yomikyo.yomiuri.co.jp/season/2005/tmas_matinee.htm
まず前半、ええときいたふうなことを言わせていただくと…すいません、たいくつでした。オーケストラもピアノも、とても良い演奏でしたが、合わなかったんだと思います。オーケストラはすっかり地を支えようとしているのにピアノが乗ってこないというか、ピアノが真剣勝負しようとしているのに、オーケストラが職人に徹してしまったというか。アンコールのピアノ独奏は、とてもよかったので(ショパンでした)10年後の小菅優でもう一度、聴きたいと思いました。
しかし後半は、素晴らしかった!!こんな指揮とオーケストラの関係って、はじめて見ました。
私べつに音楽好きではないし、増してやクラシックファンではないもので、それほどたくさん見てきているわけではないのですが、指揮者というのはオーケストラに対して、主に支配者であるか、あるいは共に仕事をする職人(ここはマイスターと呼びたいな)であるかのどちらかだと思っていたのですが。
広上淳一さんという指揮者、はじめて拝見しました。すごい個性ですね。登場した瞬間はフツーのおじさんですが、指揮台に上がると、全身、筋肉も皮膚も全てが、指揮するための道具となるのです。指揮棒と体が一体になっていると言いますか。その指揮者の動きの全てを、オーケストラの全員が注視しています。こんなのはじめてです。
左手の十指や指揮棒から、オーケストラのひとりひとりに向かって、ぴんと張り詰めた糸電話の糸があるかんじです。その糸電話で伝えられるのは「指示」ではなくて「お願い」「祈り」のようなもの。オーケストラはそれを聞き届けて音を選ぶのです。支配でも馴れでも、増してや指揮者のファンタジーでもない、オーケストラと指揮者との関係。
とても気持ちよく、なんっっって素晴らしい現場に立ちあっったんだと、感動してしまいました。また、そういう在りかたに、チャイコフスキーというのは、とてもよく合っていたようです。
この指揮者で、更に上のレベル(できれば日本人以外)のオーケストラで、またチャイコフスキーを聴きたいと思いました。