百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

役者の人品骨柄について

Twitterで、故中村勘三郎丈について「愛される人品骨柄」と書かれているのを偶然読んで違和感を。
人品骨柄、て、ふだんの生活で使わないですね。読み方は知っている。意味もなんとなくわかっている。ということは、どこかでルビでもふられた書き物で目撃したのか、芝居の台詞にもあったなあ。
通常は「人品骨柄卑しからず」という言い回しで使われる印象ですが、これを用いる場合、まず人物評ではあるものの、その人物に高い敬意をもって、敬して遠ざけるではないけれど、やや距離をおく印象がある。少なくとも、あまり面と向かって言うような言葉ではない。人がらも外見も、いやなところ、卑しいところがなく、尊敬に値する、一目おかせていただこう。というようなニュアンス。
こうした使われ方をする「人品骨柄」に対し「愛される」という、ええと、助動詞になるのかなちょっと迷っちゃったよ、は、適切ではないのでは?と感じたのが、上記の違和感につながった模様です。
人品骨柄でぐぐったらお懐かしや石川忠久先生の解説が引用されていたりして、まあ漢語ではあり、愛されるというふんわりやわらかな言葉ではミスマッチなんでしょうな。
人品骨柄卑しからず、かつまた愛される役者であった。こういう書き方ならば違和感が無いのですけど。さておき。
私にとっての勘三郎丈ですが、15、6年ほど前までは、愛嬌があり楽しい役者だと思ってはいたものの、人品骨柄を云々する感じではなかった。踊りはうまいし声は明るいし、すばらしい役者なのだから、そんなに観客に媚びなくてもいいのに。と、やや残念になりながら見ていることが多かった気がします。もうちょっとゆったり大きく芝居してくれれば、もっと好きになれるのに、って。
勘三郎襲名の少し前あたりから、こちらも芝居を見慣れてきたせいもあってか、どんどん好きな役者になっていきました。
高坏などのスピード感溢れる踊りの妙義、鰯売の愛嬌いっぱいで誰もが好きになってしまう猿源氏、梅暦の気持ちのいい深川芸者、そして圧倒的な連獅子、忠臣蔵俊寛などなど。必ず引き合いに出されるコクーンの夏祭は実際に見に行っていないので、ただまあ凄かったのだろうなとは思うのだけど、コクーンでは佐倉義民伝を観て、度肝を抜かれました。
なんといっても中村座。一昨年11月のお祭は桜席で斜め後ろから、待ってましたを一身にうける肩を観て、ああ江戸に勘三郎が帰ってきた。有難い。と涙ぐんだことでした。
こちらにその素養が欠けているので人品骨柄は云々できませんが、愛していた愛されていた。これからどんどんスケールの大きな役者になっていき、歌舞伎をリードして行くのだろう。そう思っていました。
勘三郎ひとりのことではなく、他界されたどの役者も一代でぜんぶ持って行ってしまう、代わりはないわけですから、年とともにいっそうしみじみと、いまいる役者を愛おしく尊く観るのです。