百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

ろうそく能

ひっさしぶりのお能。いやここで書いていないのですが歌舞伎はほぼ毎月2回ほど行っているのですよ。でも能は、たぶんまだ今年2回目。もうちょっと頻繁に行きたい・・・。
神遊公演@宝生能楽堂です。宝生に行くのはこれで3回目。蚊にさされました。私はどうも宝生と相性がよくない・・・なんか毎回、虫にさされたり、雨に降られたりする。なぜだー。
源氏千年紀として、観世喜正さんの解説の後、「源氏物語組曲」(お囃子で源氏物語取材のお能に使われる曲を構成したもの)、「狐塚」(狂言)、「葵上」(能)。
いつもながら丁寧な解説と、書き過ぎず足り無すぎずのほどよいレジュメの配慮が嬉しい。しかし解説の冒頭で「ここにいらっしゃる方はみなさん見巧者で」のご挨拶にはおそれいります(今公演は1週間ぐらいで売り切れた由。きっとclub神遊の人々もこぞって買ったのでございましょう)。ううう、もっと見なきゃ恥ずかしいですよ・・・。
今回特筆すべきは「源氏物語組曲」。あまり音楽の趣味も無く、耳も良くないし、お囃子だけをじっくり聴くという経験がなかったもので、少し退屈しないかと心配でしたが、それは杞憂でした。事前にレジュメに目を通しておいたのもよかったのでしょう、曲がはじまったとたん、能舞台いっぱいに私の幻想の光源氏やら浮舟やらが舞い遊ぶ姿が、まざまざと。あれは、やはり、CDなどで聴いていたのでは違うのでしょうね。能楽堂という空間にいながらお囃子を聴くということでのみ、得られる体験だったように思います。貴重な時間でした。できれば、またこんなチャンスが欲しいものです。
15分の休憩後、場内の照明が消されて、ろうそくに灯が入りました。さすがにろうそくの灯だけで観るのではなく、舞台にもほの明かりがあるのは、以前の観世能楽堂でのろうそく能と同じ。でもそのときは脇正面から見ていたので照明のモトも見えていささか興ざめだったのだけど、今回はフンパツして正面席にしたので、ろうそくに照らされた雰囲気がきちんと味わえました。
ろうそくの明かり(ということになってる)のもとで「狐塚」、わーわーこんなに荒っぽいしぐさのある演目でしたっけ?あはははは。これね、お話が、豊作のお話だからいいのですよね。太郎冠者を放り投げる場面にしても、陰湿なかんじではなくて、祝祭のめでたさがある。大晦日のすす払いの胴上げのようなものでしょうか、ちょっとした悪ふざけでめでたく幕を閉じます。狂言のこういう明るさ、祝祭性、邪を祓う力が、私はやっぱり好きなんだなあ。
そしてお待ちかね「葵上」。・・・すいません、実は、このところ体力がガックリ落ちていまして。夏バテだと思うのですが。ちょびっと眠ってしまった・・・。ええと、でも、前シテまでは起きていました!起きていたのよ!!で、前シテに限定した感想になってしまうのだけど、六条御息所の、梓弓に呼ばれて悲しみつつ来るところ、鬱々と名を乗るところ・・・謡の力を実感。この曲は、とても難しく、かなしく、大きい。仏法を語りつつ登場して・・・月の傾くまで起きていることもあるけれど月には私の姿は見えなかろう、てなことを謡うのですが、ふと、ああこれは月と仏と光源氏の、ダブルイメージなのだなあと思いました。だいたい夜明けまで起きているのだって、おそらくは光の君を待つとも無く待ってしまう心もあるのだろうしね・・・救いを何に求めるか。心の離れた恋人に求めることもできないし、仏からも見放されたような気がしてしまうし、身分からいっても同じような立場の人と語り合うこともできない、孤独感。
能の女人成仏についてはいろいろと書かれたものがあるだろうが、私は、こんな前シテ(後シテだって充分悲しい・・・これで救われたわけではなく、おお恥ずかしいと思って去っていくだけのことだから・・・)の孤独感に共感し身を浸したい。救われない鬼が私は好きだ。救われてくれるとこちらも嬉しいけれど。

あ、余談。今回も玉英堂さんのオリジナル生菓子が出ていました。本調子じゃないので今回は買わなかったけれど。4個セットで、うちひとつが、ろうそくの炎のかたちをした練り切りで、とってもステキでした。
和菓子の世界も奥深いねえ。お濃茶を上手に練ることができれば、ねえ・・・タメイキ。