百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

図書室

Twitterに書きかけたら長くなりはじめたのでこっちに書く。
徹夜明けの頭でだらだら書きたくなっただけなので、無視していただいてかまいません・・・ごめんよなんかいまやたらと頭の中身を垂れ流したいみたいなんだ・・・

図書室(と呼んでいる、本とCDとフィルムで足の踏み場も無い部屋)に行っては、この本は売れるかと悩み、1冊持ってきては読み、戻し、また悩み、ついに眠れないまま夜が明けてしまった。昨日からの頭痛は去ったが、まだ体調悪いのかな、よくわかんないな。

さきほどカルヴィーノの『くもの巣の小道』を読みかけて、本を持たずに図書室を出てきた。(あわわ一文移動。『族長の秋』ガルシア・マルケスじゃんよ)『不在の騎士』とどちらを先に読んだのだったか。こういう作家こそ系統立てて読み進めるほうがいいのだろうけど、数冊読みっぱなしで、そのままにしている。最後に買ったのは『イタリア民話集』だったかな、あれどこ行ったろう、まさかに売ったりはしていないと思うけれど。『新たな千年紀のための六つのメモ』も見当たらない、はて、あれが私としてはすばらしい体験だったのだが。かといって続けて買ってはいないし、ここしばらく読んでもいない。しかし読んだものが面白いから、こういう作家がいちばん困る。売るに売れず、増やすに増やせず(少々読むのに体力いっても増やせばいいのに、勇気が無いんだ)。一度売ってしまえば思い切れるのか、どうか。
ついでにガルシア・マルケスの『族長の秋』はツラ師にもらったもの(もう10年ぐらい前になるんじゃないか)。『百年の孤独』もいっしょにもらったのだったか、いや買ったのだったか。これは一冊で完結していわばほとんどカ・ン・ペ・キなんだけど、こういう押しも押されぬセカイメイサクブンガクは単行本じゃなくて文庫本で持っておけばいいんじゃないか、文庫化されない面白い本のスペースがほしいのだし。

そもそも寝しなに吉野朔美『お母さんは「赤毛のアン」が大好き』を読み始めたのがまずかった。このひとの作品は、まんがでもエッセイでも、的外れだったことがない。海外文学への言及が多めで、私はあまり海外文学は読まないのだけど、このひとのはそれでも面白く読ませてしまうのだからすごい。今回読み直して、彼女の本を読む体験が人との対話のためにはじまったというような記述があって、あれっそんなこと書いてあったかと改めて。だからひとに本の話をするのがこんなに上手いのか。

それで気を落ち着かせようとまんがを数冊読んでから、やっぱり寝られないので、『現代日本女性詩人85』を立ったままばらばらばらーっとめくった。詩なんてたいして読まない。むかし、ちゃんと勉強しようとしていた短歌すら、それなりにやはり系統立たない程度の本は買ったけど、やっぱりもう読まない。ましてや俳句は。でも本を売ってしまえない。困る。特に雑誌『短歌』なんかはほんと困る。好きな歌人のを読みたくてとかどこそこが気に入ってとかならいいけれど、そうじゃないから必要な箇所を切り抜くでもなく、ただなんとなく放置してあって、しかも読み直すと、そのとき興味が無かったから忘れていたようなところが次々に見つかって、ほうそうかと面白くなって、それでそこらに投げ出して、またなんとなく忘れる。

持っている本のほとんどは、役に立つ・立たないで言えば、間違いなく役に立たない。娯楽ですらなくて活字を見て、ほうと思って、忘れる、ばっかりのことで。

役に立つという意味では「実用書」というジャンルがあるのだけど、実用書として使っているのは仕事のだけで、あとは『はじめての「自宅レストラン」オープンBOOK』や『歌舞伎大道具師』や『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』や『落語で英会話』や『ミニ六法』や『すぐに役立つ冠婚葬祭事典』や『はじめてのベランダガーデニング』や『数学?+Aの考え方解き方』や『角川俳句歳時記』や『漢詩の作り方』が、私になにほどの利益をもたらすというのか。みんなみんな読む目的で買って読んでそれ以上のことを得ていないけれど面白くて捨てられないか、読んでも理解できなくて理解するまで持っておきたいかだ。

本をしまっておくということができない。基本的に全ての本は外に出して背表紙が見えていてほしい。しまっておくほうが本は傷まないだろうけど。あと、ブックカバーはつけてもらうものの、本棚まで運ぶときは基本的にはずしてしまう。だいたいの本にはそれぞれのブックカバーがあって、それが楽しい。手元の筒井康隆などの文庫はほとんど色あせて字も読み取りにくくなっているが、それはそれでよし、私と筒井康隆のメモリーだと思う。古い本は何度も埃をかぶって、払って、またかぶって、「私の本」のにおいと手触りになっている。

今日明日またゆっくり悩んで、またいくらか売る本をピックアップするつもりだけれど・・・どうなることやら。付き合いが長くなればなるほど、私と本は分かちがたくなる。私の体の一部になる。においと手触りの外部記憶。たとえば伊藤比呂美の『青梅』、まあ絶対売らないだろう一冊だけれど、先日『とげ抜き』読了してずっと『青梅』のことを思っていて、昨夜ふと手にとったら1題目の詩と『とげ抜き』の通低音である発音がきれいに呼応していて、お、あーって思った。こんなこともあるので、ちょっとでも気に入ったものは手元に置いておきたくて仕方が無い。
ちなみに『とげ抜き』は傑作だと私は思う。

子供の頃から、私は本で身を持ち崩すなあと思っていたけど、こんな夜を明かすと、いっそうその思いが強くなる。寝ればいいのにね。
では、7時になりました。洗濯をはじめましょう。干したら『たのしいムーミン一家』を読みながら寝ることにしましょう。ムーミンのシリーズ、実は読んでいなかった(少し読んだつもりだったのはダイジェストの絵本だったみたい)、読むと面白くて気持ちがいい、これまた買い揃えてしまいそう。
では、みなさんおはよう、おやすみ。