百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

コクーン歌舞伎

ネタバレ含みます、これから観るので気になる方は、観劇後にでも。
さて、昨年のに続き、二度目のコクーン歌舞伎。ロビーは店は少ないながらほとんど縁日状態。1回目の休憩時に串田和美とすれ違いました。うおおー。

  • 盟三五大切

生チェロ独奏と、印象派のような舞台美術。ライティングも素晴らしかった。
今回、全編を通して感じたのは、源五兵衛の孤独の深まっていくさまでした。私は最後の20分ほど、ずっと泣いていました。
人を殺したことを契機にその孤独は一層深くなり、自分の罪の責任を自分で取らぬまま孤独の極地へ押し出され、そこから最期の英雄的行為(これまた殺人行為)へ動かされる先にまた、リーダーとして孤独の極地にいる大星由良之助がいる…と、私には感ぜられました。敵の目を欺くための遊里通いや、突然の身請けの相談という行為は大星と共通で、大星は危うく深みにはまらず遊女も殺さずに済んだけれど、その裏で遊女を殺すに至ったもう一人の大星が源五兵衛で、二人は同一と私には思われます。
それで、源五兵衛については、周囲が勝手にどんどん忠義を通して死んでいく。自分も人を殺す。周囲はそれで共感を得たり許しを得たり未練をもったりと、人の連帯のなかにいるのだけど、その中心、主であり台風の目である源五兵衛は若党から(大義のために)庇われ(大義のために)恋敵からすらも命ごと差し出され、どんどん孤立していく。
ラスト、場面を戻したもうひとりの自分の影からはじまり、幸福な町人の姿が回り灯篭のように舞台上に展開されるけれど、そのどこにも源五兵衛の居場所は無く、もとより後は仇討ちしか残されていないのであれば、死ぬための幻の舞台にただ一人で立っているような終わり方でした。この孤独の極北で、狂わないほうがどうかしているし、狂っているからこそ、他に居場所が無いからこそ、仇討ちで輝くのではないか。
穏やかな浪人であった彼のターニングポイントがどこであったのか、それは上述のラストシーンのif「あそこで殺さずに黙って帰宅していたら全て丸くおさまった」ということなんだけど、もしそうしていたとしても幸福な町人たちのなかに彼の居場所は無かったし、しかも殺したからこそ、敵方の絵図面が入手できる=つまりパズルの最期のピースが仇討ちの完成に向かうという不条理。大義への各人の献身が結果的に源五兵衛ひとりのみならず仇討ちの成功を導き出すけれど、では源五兵衛は大義とイコールか。否。相当に複雑な色を帯びた個人である橋之助の源五兵衛はこの只中で、最期、呆然と立ち尽くしていたようでした。見事な台本ですし、鮮やかな絵解きの演出でした。そして見事な橋之助の技術と狂気でありました。
ほか「ますます坊主」と父親の二役の淡路屋こと笹野高史さん。時事の折込も見事でしたが、洒脱、俗を抜けた俗というところ、どちらもお坊さんなのにフラット。面白い存在でしたー。
菊之助、もはや彼一流の小万。妖女であり妹であり母であり、プリズムのような美女でした。惚れるしかない。
勘太郎。こんなに凄い役者になっていたとは。失礼を承知で申しますと、なにか、一皮、剥けたような気がします。
さいごに勘三郎、声だけかと思ったら元気な姿を拝見できて幸い。橋之助の対角に、大義を具現化したような姿で現れたときの客席のどよめき。順調なご回復をお祈りします。
スタンディングオベーションは観客の総意であったと思います。素晴らしい舞台をありがとう。
去年も思いましたが、つくづく、これまでのコクーン歌舞伎の未見が悔やまれる。DVDとか出ていませんかね…

追記:後から後から、あっ、あれもこれもすばらしかった、と書きたくなってしまう。とりあえず上記は「孤独」と役者を中心に。美術、音楽等々については書ききれません…みんな観てほしいよ…