百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

歌舞伎座 夜の部

昨日行ってきました。三松の団体さんなど着物の人も多く、また、若いお嬢さんの着物+長羽織も多く。なかなか目の保養になりました。

  • 重の井

いやじゃ姫の視線がうろうろと動くのが、すごく気になる。
三吉の児太郎、うーん。ませているかんじは出たけれど…難しい年頃なのかな。
重の井の福助、あまりこの役のニンではないのかなあ。
重の井というのは、負っているものの重過ぎる人で、夫は追放され、自分は自分の罪を父親の死とひきかえに赦されて姫の乳人に召され、義理でもなく、人情でもなく、現在の役目を全うすることイコール生きている意味であり、人生の責務になっているような人。そういう人が、過去に状況に流されるまま捨てた子を、今度は自分の判断で捨てることになるまでの、底なしの悲しみや絶望や徒労感を含む役だと思っていたのですが…福助、どこかが浅い気がするんです。自分の責任を棚上げにしているように見える。決して悪くはないのですが。まだ若いだけかもしれないけれど…なにか釈然としない重の井像でした。

玉三郎で、はじめて見る曲と演出。全体に能ガカリで、工夫したんだなあとは思いましたが、前半の静は退屈だし後半の知盛は怖くない。そして玉三郎の体は舞に向かないし、声は謡に向かない。能が観たければ能を観に行くので、歌舞伎では歌舞伎を見せて欲しいなあと思いました。発見は、能の義経を大人がそのままやると、チョトまぬけ。意欲だけは見える舞台だっただけに、残念でした。

  • 松浦の太鼓

別の配役で何度か観ましたが、今回、これまでで一番おもしろかったです。
松浦の殿様は勘三郎ぐらい軽薄なかんじがしたほうがいいみたい。隠居して政治に関われない無念さを出すよりも、政治の傍観者として一喜一憂するところにヨイショ俳人・其角が上手にからむ。
其角の弥十郎、ここでもよかったけれど、ちょっと生臭かったかな…。