百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

ふたりとひとり


昨日は、神遊の10周年記念公演ということで、きっと気合が入ったいい公演になるだろう。という勘だけで行ってまいりました。
観たことない演目ばかりなのに何も予習しないで行ったのですが、これはこれで!!
写真は、この公演用のオリジナルとして玉英堂さんが出していた生菓子。キレイ♪さてどのお茶いれましょうか…

「酌之舞」という小書のみの上演。観世銕之丞。神遊メンバからは、小鼓が観世新九郎、笛が一噌隆之。
いきなり別世界に引き込まれました。銕之丞の、ふわりふわりと地につかぬような足運び。融が月の住人だからか、なにか我々とは重力のかかり方が違うような。
実在した男の話なのに、神話色の濃い、詩的な曲のようです。これ、ただ「酌之舞」という小書だけがそういうものなのかと思ったら、曲自体がそのようであるらしい。短いなかで夢幻能を堪能しました。ファンタスティック!作者は世阿弥。次は是非、通しで観たい。
囃子方では、大鼓の柿原崇志がとてもいい。硬い音も柔らかな音も自由自在…大鼓であんなにふんわりした音が出るとは知らなかった。

シテ、野村萬斎。アド、高野和憲。申し訳ないけれど、よい出来とは言い難い。少し寝てしまったのはこちらが悪いが(^^;
貫禄不足と…特にアドは体調でも悪かったのだろうか、声の抜けも悪い。野村萬斎の動きは悪くないが、手足の長さが目について、包丁を面白く見られなかった。
あとで『能・狂言事典』を見ると「笑いのない渋い皮肉な内容からいって若年では勤めにくい曲。事実、上演はまれである。」とあり、こちらの印象と一致。若手の集まりである神遊の記念再出発に際して、野村萬斎からも得意分野でないもの明るさ面白さばかりではないものに敢えて挑戦して、祝意と応援を表したと見るべきだろう。

  • 一調 放下僧

観世喜之。抜群の切れ味。無駄が無く小気味がよく軽やかで爽やか。1935〜とあるから、今もう72歳ですよ…すげえ。

  • 能 卒都婆小町

シテ、観世喜正、今回披く。ワキ、森常好。ワキツレ、森常太郎。神遊メンバは小鼓の観世新九郎さん以外、全員出ています。
まずワキとワキツレが僧で出て、向かい合って自分の境遇と道を求める心を歌うのだが、これが。いきなり高く澄んだ声で謡いだされる曲はメロディアスで、アリアを聴いているような錯覚。いや二人で謡っているからアリアではありえないのだけれど、ワキツレはワキと違う所作も声もしないので(後でニガイメさんに言われてああそうかと思ったが、二人の声質もとてもよく似ていた)、この僧は実際は独りで旅をしていたのだろうかと思う。ワキと同じものが連れの僧のかたちをとっているのは、何か「同行二人」を思わせて至極暗示的に感じる。能にはこうした、何人でやっても一人だったり、一人であっても複数人だったりする演出が多いが、それにしてもいきなりやられた。
アリアのあと短く低く地謡が入り、これまた更に音楽的な印象を盛り上げる。地謡もいい…。
そのあと一時、音が止んで、老女が登場。橋掛りを長い時間をかけて、渡りきるか…と見たときに、携帯の音が!よりによって!この長い橋掛かりの時間をかけて観客が舞台に集中した瞬間なのに!!
あの電子音は犯罪ですね。一気に客席の空気が乱れて、その後も5分ぐらい、あちらこちらで、ビニールをガサガサさせるわ、バッグのチャックを開け閉めするわで集中できない。老女が口を開いてやっと場が戻りはじめる。
前半は仏教的な問答。見た目には僧が立って座って手をつくだけで、ほとんど動きが無い。老女=小町の答えは終始軽やか。ことばの、声の力が無ければ成り立たない場面と思われるが、難なく整然と舞台が進む。
後半は急に小町の様子が変わる。老女に深草の少将の怨霊が乗り移るのだけれど、そうというより、はじめから老女の中にいた何かが急激に現れて狂うかんじ。見た目が静かな老女のままで狂乱するというのは、想像以上におそろしい。百夜通いは曲も所作も面白いが、老女の姿が常に見えているのでかなり気味が悪い。
曲は最後まで音楽的。僧といい、老女といい、能の重層性をとことん楽しめる。
作者は観阿弥。おそらく名作でしょう。また観たい。