百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

能を知る会 東京公演

昨日、国立能楽堂にて。直前に知って慌てて申し込んだら速達でチケットが送られてきて恐縮。いずれ鎌倉能舞台にも行かなくては。

  • 講演「山に棲む女の鬼」馬場あき子

明快な語り口で、折口信夫柳田國男民俗学の観点から山姥を語ってくださいました。それらの解釈も面白かったのですが、所々に、馬場あき子さんご本人が能「山姥」のどこでどのように感じるかという話(馬場さんは「克己」と「孤独」という点に強く惹かれているように感じました)が差し挟まれ、私にはそちらも大変興味深かったです。

好きな演目です。「鬼」と「女」というテーマで選ばれたのでしょうね。野村万作のシテ大名が素晴らしい。…もっとも、この方、何をなさっても大概、素晴らしいのですけど。アド太郎冠者は高野和憲さん、この方も大変人気のある方ですが、今回は実直さを前面に出して、じんわりとあたたかな太郎冠者でした。
最後にふたりで笑って引っ込むのですが、この笑いが狂言の骨頂だと思います。狂言の笑いは独特なもので、ぱぁっと辺りを明るく清らかにする。笑いという行為の祝祭性といいますか、能の翁と一対になって舞台を神聖なものに作り変える、一種の祈祷でもあると感じました。

  • 能 山姥

初見。世阿弥作。「白頭」という小書がついていて、白頭の見た目だけでなく、いくつかの特殊演出があるようです。ノーマルなの見ておけばよかったなあ。あと、事前に謡の文句をアバウトにでも頭に入れておけばよかったなあ…。
と、それはそれとして面白かったです。特に、後シテになってから鹿背杖(葉っぱがついてます)、扇、また鹿背杖と持ち替えてのクセ舞。一陣の風のような舞いおさめと引っ込み。
山から来た異形の者が、やはり特殊な境遇にある誰か(孤児)に何かを伝授して去る。という作りは、能にはたまにあるのだろうと思うのですが、能という芸能の起源をも考えさせられ、好きなパターンでもあります。
もっともっと能を観たい、聴きたい。

10/19追記:id:peacemamさんのブログ「虹の小箱」にて、上記鹿背杖についてのQA(コメント欄にシテを勤められた貫太先生が登場?)があったので、引用します。

先日はご来場ありがとうございました。
鹿背杖に附いていたのは榊の葉っぱで、山に住む女をあらわすための装飾だと思います。
常は丸棒の杖に「こうだん」と言う布を巻いて榊を附けるのですが、小書の時は自然木の杖に榊を附けます。

http://d.hatena.ne.jp/peacemam/20071016

とのこと。既に上演後の質疑応答で、山姥の面が『山姥』にしか使われないので当日の面は17年ぶりに着けたということや、小書『白頭』が頭だけでなく鹿背杖の使い方なども通常とは異なる点を、またスタッフブログでは使われていたお扇子も『山姥』専用のお扇子であることが明かされています。更に杖までもが特別仕様だったわけで…特別尽くしを観たのだなと、なんだか得した気分です(でもやっぱりノーマルなの観ておくべきだよね…)。
いやしかし、舞台と言うのはそもそもそういうものなんだろうけれど、能ほど一回性を強く意識させられる舞台はちょっと思いつかない。例えノーマルな演出だったとしても、全てが現在にあり、全てが特別に大切なもの。『山姥』という演目自体、遊女百萬山姥にホンモノの山姥が正しい舞を伝えるという部分が話の核になっており、それもまた一度きりの伝授なわけで…神というのが一生に一度しか会えないものなら、山姥はやはり神でもあるのでしょう。一期一会。
ともあれ、「虹の小箱」ブログ本文も興味深い内容となっていますので、ぜひ見に行ってみてください。