百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

コクーン歌舞伎

佐倉義民伝。たまに出る芝居だそうだけど、私は観ていなかったので、コクーン串田和美勘三郎バージョン、ラップつき、というこれが初になる。コクーン歌舞伎自体もはじめて。
小劇場!じゃん!2階席だったんだけど、天井近!あー中村座のサイズ感に似ているかもしれない・・・。
肝心の芝居は、まあ、その、たいへん面白うございました。
もちろん佐倉宗吾が頑張る話、人情もの、なんだけど、今バージョンのオリジナルキャラクターとして、いろいろ扇動する、シェイクスピアにおける道化と魔女を足して2で割ったような橋之助が、話にマスコミな感じで噛んでいて、興味深かった。どんなひどい人生でも明日があるから生きていこうというメッセージもさることながら、それを一本気に生きた宗吾をリスペクトしつつも「浮いた存在」として違和感を持たせたまま人々のラップに巻き込んでいく、この演出は、成功したんじゃないかと思った(ラップ自体の出現は、もう少しだけ後でもよかったかもしれない)。
走れ!と思い知れ!のアンビバレントは、即ち情報の冷たい受取人としての私たちが持っている二面性(でもその根は一つの、情報の表面しか撫でない怠惰さ)をも表していると思った。
勘三郎その人の来し方を重ねて観ても間違いはなかろう。その場しのぎでもなんでも、大勢を食わせていくための行動を若い頃から行ってきた55歳。2人の息子、多くの弟子。そこに筋を一本通すのは、非常に困難な道であると思う。私はそこに勘三郎の、宗吾への共感と今後の奮闘への覚悟も見たような気がする。もっとも、芝居をどう受け取るかは客の勝手であって、こういう感情移入は役者には邪魔なだけだろうけど。
笹野高史の舞台姿も、初めて観たのですが、いや良いですね!こういう良い役者がいてくれて、芝居が厚くなる。ありがたや。ほかに弥十郎七之助、子役がよかった。
帰りに寄った居酒屋で、ニガイメさんと同じぐらいの歌舞伎観劇暦のある店員さんに遭遇。もっともお年は私とほぼ同年代で、小学生の頃から歌舞伎にはまっているというから、相当なものです。好き嫌いの傾向がニガイメさんと相通ずるものがあり、ニガイメさん大いに語る。またあの店にまいりましょうね。

追記:さっきニガイメさんと、宗吾と橋之助の役(由比正雪のニセモノ)の裏表感は、宗吾に与えられた「名主」という役割がキーなんじゃないかという話になった。「名主」という、責任をとるためにある役割を生まれたときから与えられると与えられないとで、同じような資質の持ち主だったかもしれない人間がどんどん、相反する行動を選択するようになる。宗吾だって名主じゃなければ、どっか江戸へでも出て行って、大道芸やってたかもしれない。
ここにも私はやっぱり、勘三郎の生まれ持った「役割」を重ねてしまう。
そして、多くの人々の「役割」をも重ねる。社長とか平社員とか、父とか母とか、いろんな役割が複雑に絡まって、そこにそれぞれの選択が行われるところにドラマが生まれる。

さらに追記:歌舞伎役者の身体について、つらつら思いながら帰ってきたんだった。からだはだいじだ。歌舞伎役者の身体能力の高さは、ちょっと凄い。からだが古い芝居も新しい芝居も受け止めるんだなあ。